かっきーサブ部屋

好きな服を着て過ごしています

アントニオ猪木の生き方が好き

元気ですかー!!元気があれば何でもできる

 

これは10月1日に亡くなられた、昭和の偉大なるプロレスラーであるアントニオ猪木の定番と言っていいセリフ
私はこの人のことがかなり好きだ、まずプロレス自体が好きなのだがこの人の生い立ちや人生、言った言葉が昔から心に突き刺さるものばかりで惹かれているのだ。


前述の有名なセリフだってネガティブな時に見れば勇気がもらえるし、調子がいいときに見ると背中を押してもらえる気がする。
ちなみに5~8月がポジティブな時期で10~2月はネガティブな時期なので今はよく元気をもらっている

 

それ以外でも好きな言葉はたくさんある。引退の時に言った『道』とう言葉は全体的に好きだけどその中の『迷わず行けよ、行けばわかるさ」とか

1990年2月10日のタッグマッチでの控室でアナウンサーに対して言ったセリフで

『出る前に負ける事考えるバカがいるかよ』

なんてセリフは自分が迷ったときに見るとかなり心に響いてくる言葉です。

 

こういった言葉の数多くは彼が色々な物事に挑戦して失敗して泣きそうなほどに打ちひしがれて絞りだされた言葉なんじゃないかと思っています。
彼は幼少期に家族とブラジルへ移住しました。そこでの暮らしはかなり劣悪だったことを本で分かります。

着ていたシャツからは汗を通り越して塩ができるしヒルにだって襲われる、朝から晩までの長時間労働で農園から脱走していこうと思ったら命を奪われてしまうほどに過酷の環境でした。
それが、猪木の師匠でもある力道山がブラジルに来て興行した時に拾われて、そこからプロレスラー人生は始まりました。

 

プロレスラーとして生活していても彼の過酷な生活は変わりません。YouTubeに昭和のプロレスの練習風景の動画があるけどこれもかなり過酷です
まず、普通の腕立て伏せとは違う腕立て伏せだし、スクワットだって何百回という次元の話なんです。
そんな過酷な練習をやりつつリングで危険な技の応酬、昔は今と比べてそういった危険な保険もないだろうしかなり命を張っています。


それ以外にも有名選手の離脱問題・ファイトマネーでの問題・・・そんな状況を先頭切手、進んでいたのがアントニオ猪木なんです。

引退してからは政界に挑戦してキューバに行ってカストロ議長やソ連にだって足を運んで自分なりに挑戦を続けていきました。

なんかただただ凄いですよね、、、
自分なら~とかそういった言葉を言うつもりはないけどこの人の道を切り開いていく行動力もそうだし、
先も分からないことへの恐怖心と戦うメンタリティーに私は尊敬の目を向けていました。

 

もし、もっと詳しく知りたいのならぜひ本を読んでほしい。

まだまだ文章表現力が弱い私であるが、この人が実はとても臆病で繊細でそれでも自分の困難に向き合って生きてきた人だということを知ってほしいのだから

 

多分、人生に悩んでいたり辛い思いをしている人にとっては勇気をくれるものになると思いますので・・・

 

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三年は勤めろに対して思うこと

『石の上にも三年』

今の社会では全体的にこの考えに疑問を持っている人が増えてきた気がするけど自分たちの周りを見てみれば、未だに三年続けた方がいい
と考えている人の方が割合的に多い。もう少し時代が進んでいけばこの考え方の比率も変わっていくのだろうと思うけどまだ、変わっていかないと思う。
僕個人は『辞めたきゃ辞めればいい』派の人だ。ただ、実際には3年目を迎えているのだけど・・・

今回は三年務めてみた自分がこの考え方に対し改めて話していきたいと思っている。勿論、他方を貶す気はないけど考え方しだいによっては
苛立ちを覚えると思う。ソレに関しては一人の意見なんだなぁとして捉えておいてほしい・・・

 

  1. とりあえず3年は続けてみた

    あらかじめ自己紹介するけど僕は都内の介護施設に働いている介護職員だ。基本給は少ないけど手当・夜勤などを含めたうえ、手取りで20万ほどは頂いている。
    学生時代の友人の中で介護の道に進んでいった友人と比べてかなりもらっている方だ。15万以下の人だってざらにいるのを思い知る。
    わりかし僕の勤めている会社は介護の中では大手企業なのだろう。

    僕は2020年に入社した。みんなも知っているともうけど直近でかなり大変な時期。僕のところは『人がいないから』という理由で4月1日から働き始めることに。
    その時点で僕は既に辞めたくなっていた。

    『なんで大変な時期に仕事しないといけないんだよぉ~』

    『しかも配属希望先、全然違うじゃん・・・どこだよ、〇△って』

    そこから、とりあえず7月までは続けよう。そしたら辞めよう・・・なんて思っていたのを思い出す(ちなみになぜ7月なのかというと僕の誕生日が7/24だからである)
    そうして続けていって7月を迎えて冬を越し2年目を迎えた。なんとなく続いていた。
    いつも辞めたい辞めたいなんて口癖のように呟いていたにもかかわらず、後輩を持っていたのだった。
    後輩に対して優しくしないといけない、見本にならなきゃいけないと考えがあるけれど僕のメンタルはそんな状態ではなかった。

    多分、うつ病だったと思う。最寄り駅で吐いていたし家の電子レンジや冷蔵庫に話しかけていたのだった。
    自分でも思い出せない状態、鍵がかかっている感じに近い。二年目のジンクスというプロ野球界ではある言葉であるが、あの当時はその言葉に倣って必死に耐えていった。


    そんな辛い思いを1年耐えて3年目を迎えた。今年だ、僕は高卒の女の子を指導するようになった。夏の時期までみっちり指導していき彼女は独り立ちをして今は11月になる。

  2. 辞めたくなる時期は誰だって来る

    上の分でもわかると思うけど僕は常に辞めたいと思っていた。
    そして、職場からいなくなった人を見て『いいなぁ~、あの辞める勇気がほしいなぁ』なんて指をくわえていたのを思い出す
    僕の場合は困難に直面するたびに辞めたくなっていた。あと、自分よりすごい人を見て比べて自分の価値観を下げていって更に辞めたくなっている。
    それの循環が日々の怠惰を生み出していったんだなって思っている。上司同僚のと話していてもやっぱり辞めたくなるのはあるらしい

  3. 辞めたっていいけど三年やってよかったと思う


    正直、魅力がなかったり辛かったりしたら辞めたらいいと思う。
    人間、火事場の馬鹿力というか追い詰められたとき・やらないと死んでしまう状況になったら尻に火がついて『やるしかなくなる』と思うし。
    ただ、人間的に成長するには多少怪我を負わないといけないんだなってのは社会経験で学んでいった。

    子供が使い方を学んだりする時って、誰かの言いつけに沿ったものもあると思うけど、痛い思いをして学んだことが多い。
    僕の場合、宿題を忘れた場合の制裁や仕事上の報連相を怠った後の制裁、電話対応・・・どれも失敗して学んできた。
    大けがをしろ、とは言っていないけど多少の擦り傷は性別・年齢関係なく負わないと成熟はしていかない。
    ある程度、成熟するのに必要なのは平均して3年っていうことだと思う。先輩たちには大けがする前に頼み込もう。伊達に長い年数続けている人じゃないんだし。

    損切りをしているんだ、もっと学べることがある場所に行く。自分の力を挑戦させたい』

    なんてあるけど社会人なり立てというのは案外、社会的に見て自分が無能だということが多い。
    入社もある種の縁だと思って僕は今でも続けている(飽きているけど)


    以上が自分の三年理論の答えである。実際、今の会社はまだ続けているので(仮)ということで

     

     

男/女? いいえ、自分らしく~

男なら仕事して当たり前、一家の大黒柱
女なら家事をしっかりやる、おしとやか

なんて言葉はもう古いのかもしれない。男だって家事をやるし
女性の管理職だって進んでいる。人数比率はどうあれ、昔に比べたらだいぶ多くなってきているんじゃないか

それでも男/女らしくなんて言葉は顕在する、上記のようなことを含めたうえで
それぞれのらしさを求めている。

別に間違っているとは思わない。分かりやすい指標があればそれだけで自分にとっての
指針ができるわけだし、それを骨組みにして自分の人格形成だってできる。

けれど…けれど…

僕自身として男女のらしさなんてどうでもいい、自分らしくいたい!!

男でもピンクが好きだ、ネグリジェを着て寝てみたいしスカートを履いて過ごしてみたい!!

女性でも同様に性別に縛られずやりたいことがあればそれをやっていい

別にLGBTとかの社会的問題を言っているつもりはない、ただ男性女性で区別がつくようなことに
意識せず好きな服装、色、やってみたいことをやる。

それこそ自分らしくだ。好きな風に着飾って楽しいと思える状態を追い求めていきたい
最初なんてのは誰からにも笑われたりするもの、けれど自分が夢中にその道を突き進んでいるのであれば
そんなことなんて耳には届かないはず。

夢中に、そして自分らしく。
そうやって楽しく過ごしていきたいと日々思っています。

女装のきっかけ

女装に関しては、僕はだいぶ前に遡る。

幼稚園?小学生ぐらいの時かな?あの当時、テレビでやっていたのは「プリキュアしゅごキャラシュガシュガルーンきらレボ」なんて女装趣味を植え付けるのに最適な環境だったのかもしれない。

テレビ越しの女の子、可愛い衣装・制服・スカートそして綺麗なピンク…男とは正反対の色に少し惹かれていたのが、キッカケなのかも知れない。

 

それから女装し始めてのは小学4年生ほどだと思う。

当時、家の近くにあった洋服屋で親と買い物していた時にとある物を見つけた。

 

女の子用のショーツだ。しかも、プリキュアシナモンロールなどの可愛いデザインのされているものだ。

その時、僕は買いたい一心だったけど親にその事をバレるのが怖かったので、親が誰もいない日を狙ってお小遣いで買ったのが最初。

 

家に帰ってすぐに履いた。ショーツは女の子用なだけあって伸びるし、何より肌触りが凄くいい。

そして、何より男の子が女の子のパンツを履いているという背徳感が堪らなかったのだと思う。

 

お尻側には可愛くプリントされたキャラクター

 

あの背徳感こと僕を女装の道へ歩ませたキッカケの1つなんだと思う。

 

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